最近、奈良の情報なんだか、なんなんだか・・・ 反省
連休も明けて、ようやく「さぁ~て、そろそろ勉強しなきゃなぁ~」という気持ちが出てきました。 出てから始まるまでがまた時間がかかるのですけど。
まずやりかけた美術史概論。
一番疑問に思ったのは、飛鳥時代に木彫と鋳造だった技法が、奈良時代になると塑像と乾漆像が中心になり、それがまた木彫に移行した理由。 なぜ塑像や乾漆像じゃなきゃいけなかったのか・・・ 中国みたいに石窟寺院なら塑像も理解できるけど、なんで日本で塑像を作らなきゃいけなかったのか。
テキストでは触れられていませんが、いろいろあたってみると、型を利用した大量生産に向いていた技法だった、という理由が見つかりました。 これはありえるでしょうね。 あっちこっちに寺をつくり、鎮護国家を祈らせた時代ですから。
じゃ、乾漆像はなぜ?
同じように型でおおまかな造形をして、仕上げだけ漆で念入りにって思考か? それともキリスト教の聖母マリア被昇天のお祭りみたいに、仏像を御輿に乗せて練り歩くため、軽いハリボテの乾漆像じゃなきゃ、御輿のかつぎ手が大変だったから?
こっちはまだ正解にたどり着いていないのですが、テキストの記述に、興福寺の十二神将について光明皇后の発願で始められた事業だったが、漆の値段が建物の値段より高かった、というのがありました。 これヒントかも!
当時は、功徳をつむことを良しとし、自分で写経などを行なうことも、お金を出して人に依頼しても、それは同じことだと信じられていたワケで・・・ そうすると、功徳の高は、ある意味でそれにかけた費用の高で換算することになると思うのですよ。
中世のキリスト教社会において(すぐ自分の得意分野に話をすりかえるのですが。。)、たとえばフィレンツェにあれだけの繁栄をもたらしたのは、本来、罪をあがなうための教会への寄付が、つまり儲けた金の高に見合う寄付をしていたものが、徐々に発想が逆転し、これだけ寄付するから、それに見合う儲けをちょうだい、ってなってしまったのです。
光明皇后に同じような下心がなかったといえますかねぇ・・・
少なくとも、これだけ金を使っているのだから、自分はものすごい功徳をつんでいるって自己満足はあったと思いますよ。
安かろう悪かろうで、大量生産で需要を満たすための塑像をもとに、漆をふんだんに使って豪華に仕上げた乾漆像の方が価値が高い、そんな発想だったのか。 あるいは商売にしたたかな中国人が企画を持ち込んだのか。 こっちもありえそう。
だから木彫がはじまっても、木彫の仕上げに漆を使う、木心乾漆が残ったんじゃないかな? この流れは、最後には補修とか一部の造形に漆を用いるというスタイルで継承されたのだと思いますね。
唐招提寺には、こんな木彫と乾漆を併用した仏像が多く残っているようです。 ちょっと行ってみたいけど、工事中だから見られないかな?
あと面白いと思ったのは、塑像と乾漆像の宝庫の東大寺法華堂(三月堂)が746年くらい、木彫が始まった唐招提寺金堂が772年と、あまり差がないことです。 やはり鑑真の連れてきた仏師たちが、最初東大寺あたりでウロウロしている時に法華堂なんかの仏像を観察して、唐招提寺で造仏するとき、テクニックをまねたんじゃないかな・・?
こういうシナリオでレポートを書くと、当たると「独自の視点が素晴らしい」とか評価されるし、外れると「あほちゃうか! テキストよく読んで再提出」となるのです。