ちょっと最近、すごく気になって調べてること。
「司馬鞍首止利仏師」って、どう解釈すればよいか・・・?
「なに、今さらアホなことを」、とかいわんといておくれやす。
止利は司馬達等の孫で、父は多須奈、渡来人の家系は間違いない。
飛鳥寺の
飛鳥大仏、
法隆寺金堂釈迦三尊像を造ったといわれる人。
これから独楽さんみたいなことを書きます。
<そもそもの問題>
法隆寺釈迦三尊像の光背にある銘文の最後の部分に
「使司馬鞍首止利佛師造」とあるが、これをどう読むか。
(銘文は、上の釈迦三尊像の画像の下にあります)
<一般的な解釈>
「しばのくらつくりのおびと、とりぶっしをつかはし、つくらん」と読み、意味は
「司馬鞍首止利佛師という名前の仏師が仏像を造った」というもの。
<指摘されている問題点1>
扶桑略記の用明天皇二年の条には「百済仏工鞍部多須奈」
聖徳太子伝暦上巻の用明天皇二年には「仏工鞍造部多須奈」
というように、職業あるいは所属に続けて名前を記述する。
これに準ずれば、「使佛師司馬鞍首止利造」が正しい。
→ 「ぶっし、しばのくらつくりのおびととりを、つかはしてつくらん」
<指摘さてれいる問題点2>
「佛師」という言葉は飛鳥朝廷の中では存在しない。
もちろん日本書紀にも無い、あるのは「造佛工」というもの。
また止利の記述では「乃命鞍作鳥、爲造佛之工」というもの。
→ 「すなはち鞍作鳥に命じ、ほとけつくりまつる、たくみとす」
~師、という記述は、律師、禪師、咒禁師、畫師(ゑし)など。
そうなると仏師は名前の一部である可能性も・・?
<指摘されている問題点3>
「止利」というのは、個人名ではなく、責任者の意味ではないか。
落語のとり、紅白歌合戦のとり、のように実力者とか、リーダーである。
中国では「主任」と書いて「とり」と読むし、文法的に正しい。
→ 「しばのくらつくりのおびとのとり(責任者)の仏師をつかはし、つくらん」
<問題点を整理すると>
・止利は名前なのか、工房名、役職名など名前ではないのか
・仏師という造語は、今で言う仏師と同じく職業上の肩書きか
・まさか仏師というのは名前のような固有名詞か
ということになります。
仏像について、本当に止利が制作したのか、などという問題点も数多く指摘されていますが、それらは今回は保留して、あくまで「司馬鞍首止利仏師」の意味だけを考えますので、そこんとこ、ヨロシク。